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カツラの葉っぱ 大好き!

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「食の歴史と日本人」

<「食の歴史と日本人」>  
スチュアート氏の「世界の食糧ムダ捨て事情」という本でも日本人の「もったいない」精神に触れていたが、川島博之著「食の歴史と日本人」という本でも、「もったいない」の歴史が述べられています。

食の歴史と日本人
・「もったいない」はなぜ生まれたか?
・朝鮮からのコメ供出
・新大陸に「もったいない」精神が生まれることはなかった
・「安全も水も、そして森林もタダで得られない」

今お騒がせのTPPには金子先生の歴史の中の「自由貿易」:錦の御旗を立ててみたけれど…など読んで、勉強しようと思うのです。



<「もったいない」はなぜ生まれたか?>
川島博之「食の歴史と日本人」東洋経済新報社の副題が“「もったいない」はなぜ生まれたか?”となっているように・・・・
なぜ日本人は食べ物を残すことに罪の意識を感じるのか?と、ある意味で日本人論となっていて、面白いのです。
  

p233~236
 日本人は「もったいない」をよく口にするが、これは不足しがちなものを大切に扱うことにつながり、地球環境問題の解決には好適と考えるが、それは戦略性に欠ける言葉にもなっている。ユーラシア大陸で放牧や牧畜を行ってきた人々は、安全に敏感にならざるを得なかったから常に戦略を考える必要があった。
 それに引き換え、日本人が行ってきた稲作において求められたものは、勤勉と「和を以て貴しとなす」精神であった。海外情勢など関係ないのである。これは内向きな精神につながる。
 そもそも、鎖国が約250年も続いたことは、そのような内向きな思考が、食の歴史が育てた日本人の性格によくマッチしていたためである。このように考えれば、「もったいない」が戦略性や、海外に飛躍する雄渾さに欠けた精神を表す言葉になっていることは明らかであろう。
 人口が過剰であると感じたとき、日本人とイギリス人がとった行動は大きく異なっていた。イギリス人は移民したが、日本人は「もったいない」精神でこれを乗り切ろうとした。その結果、日本人が移民の必要性に気がついたときには、世界は列強に分割されてしまっており、入植する余地はなくなっていた。そのために、「もったいない」という言葉を持たない英語は国際語になったが、「もったいない」を生んだ日本語が国際語になることはなかった。

 勤勉であり仲間と協力し合うが戦略性に欠ける点は、戦時において特に顕著に現れる。ノモンハン事件を、ソ連軍の司令官として戦ったジューコフ将軍は、日本軍の印象をスターリンに問われた際に「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」と評したそうである。第2次世界大戦を日本軍と戦った連合軍の将軍たちは、日本軍に対してほぼ同様の感想を持ったとされる。
 この下士官兵が狂信的な頑強さで戦うことは、勤勉性や仲間意識の強さ、仲間はずれにされたくないこと、また村から出てきた青年が捕虜になった場合に、残された家族が村八分になる危険があったことなどから説明できると思う。
 一方、高級将校が無能であることは、情報や戦略を必要としない村社会に育ったエリートの宿命的な欠陥であろう。この傾向は、現代日本においても、多くの組織に引き継がれていると思う。

 本来、戦略を練り上げるには徹底した議論が必要となるが、徹底した議論は仲間を傷つけることになるため日本では好まれない。重要な決定もその場の空気が決めることが多い(山本七平 1983)。このように議論を嫌い場の雰囲気で物事を決めることは、稲作を行い島国に育った「もったいない」をよく口にする民族の基本的な性格である。

 現代の若者は、そのほとんどが稲作に従事したことがなく、核家族に育ち、村社会の因習に従う必要もなくなっている。また、テレビやインターネットなどを通じて海外の情報も豊富に持っており、合理的な思考になじんだ世代であると思っていた。
 しかし、近年、その若者の間で、場の雰囲気を読めない仲間を揶揄する言葉としてKY(空気が読めない)なる言葉が流行した。これに対して、筆者は大いに驚くとともに、少々落胆もした。稲作から遠く離れた世代においても、日本人の遺伝子は脈々と息づいているのである。


最近の若者のイメージは、空気を読みすぎる草食系とでもいうもので、行く末の景気の悪さが頭をよぎるが・・・・・
多少貧乏でもかまわないという感性は、良い悪いは別にして、中華の民なんかには想像の埒外でしょうね。



<朝鮮からのコメ供出>
戦前から戦時中に起きた、朝鮮からのコメ供出について、川島博之著「食の歴史と日本人」から紹介します。
ここでもTPPで取りざたされる関税自主権が出てくるが、TPPとは経済的な戦争とでも言うべきもので・・・・
説明責任を果たしていない我が政府の頼り無さがクローズアップされるようです。


p172~173
 日本に多くのコメを輸出したために、朝鮮では一人当たりのコメ供給量が減少した。これは歴史上の事実である。しかし、なぜ、そのようなことが生じたかを考えると、それはなかなか複雑である。日本の警察や軍部が朝鮮の農民に銃剣を突きつけて、無理矢理にコメを供出させたのならば、それは日本の横暴と非難されてもしかたないであろう。

 コメの供出は1939年頃から一部では行われていたが、法律に基づく強制的な供出は日本国内、朝鮮ともに1942年(昭和17年)から始まった。また、供出させるにしても、その価格は生産費を考えて設定されており、闇米として流通させればより高い利益が得られたという事実はあったにせよ、農民の生活を無視するものではなかった。
 供出制度ができるまで、朝鮮でもコメは自由に売買されていた。朝鮮から日本へのコメ輸出入は経済原理に基づいて行われていたが、そのような状況の下で、日本は朝鮮を植民地にした際に内地と朝鮮との間の関税を撤廃した。これは、内地と植民地を同一に扱うとした皇民化政策から出たものとも考えられるが、それは朝鮮におけるコメ供給量の減少につながった。
 関税が撤廃された結果、経済力が弱い朝鮮のコメは安かったために、仲介業者により大量に買い付けられ、高く売ることができる日本に運ばれた。朝鮮の農民は高い値段で買い取ってくれる日本の仲介業者にコメを売り、その代金で中国や満州から粟などの雑穀を買ったとされる。このように、経済原理に基づいてコメが朝鮮から日本に輸出されたのであり、日本が警察力や軍事力を背景に強制的に朝鮮からコメを収奪したわけっではない。
 ただ、朝鮮に関税自主権があれば、このような事態は発生しなかったと考えられるから、宗主国としての日本が朝鮮の人々の生活を考慮することなく強引に政策を推し進めたことが、このような結果を招いたといえよう。この点において日本は非難を免れることができないと思う。

 一方、朝鮮のコメが大量に輸入されたことは、日本国内にも複雑な影響を及ぼした。1920年代から1930年代中頃にかけて、第一次世界大戦の終結に伴う戦争特需の解消、関東大震災、また1929年に始まった米国の大恐慌の影響を受けて、日本では景気後退が続いていた。景気が後退したために都市労働者が困窮し、品質は劣るが安価な朝鮮のコメはよく売れたそうである。その結果、国内産のコメの価格も下落することになり、これは戦前における農村の窮乏化に一層の拍車をかけた。 

 
 皇民化政策による関税撤廃ということで、現在お騒がせのTPPと若干異なるが・・・・
朝鮮半島からのコメ輸入は日本農村の疲弊を招き、これが2.26事件の遠因になったとも言われています。ほんとに、食い物の恨みは恐ろしいですね。

ここまで読んでくると、食料に関して関税自主権を自ら放棄すること(あるいは放棄させられること)の愚かしさが明白であるが・・・・
事は、旧政権並に対米隷従を踏襲する菅さんのオツムにかかってくるのです(大丈夫?)

米国基軸のTPPよりアジア中心の経済圏をなど読んで勉強しようと思うのです。
民主党議員はいいこと言ってるのに、トップがアホなのは・・・・やはり、日本的現象なんでしょうか?
食料の安定供給は国家の基本的責務で、安全保障の根幹です。(ですね)



<新大陸に「もったいない」精神が生まれることはなかった>
川島博之著「食の歴史と日本人」からの引用が3回目となるが、それだけ、この著者の論調に惹かれるんですね。

米国など新大陸へ傍若無人に入植した者には資源を大切に使う心が育つことはなかったが、当然として、彼らには極東の島国の「もったいない」精神は理解不能のようです。
両者の違いはキャリング・キャパシティの違いでもあるが、そのあたりを、この本から引用します。


p204~210
 江戸時代の農業技術では、日本列島で3000万人を扶養するのが精一杯であった。つまり、人口がキャリング・キャパシティ(最大扶養能力)の上限に達してしまっていた。この時代に、間引きが行われた。
 人口がキャリング・キャパシティの上限に達してしまった時代には、より一層の勤勉が求められた。江戸後期は「もったいない」精神が根づき、強化されていった時代である。当時の人々は、暖房や煮炊きに用いる燃料、衣料品の原料、また明かりを採るための油も生物資源に頼っていたが、その時代に、農地、森林、草地の合計面積が世界の0.33%しかない国に、世界の4.8%もの人々が住むことになったのであるから、食料だけでなく衣料品の原料も燃料にする木材もすべてのものが不足気味になった。
 このため、江戸時代後期において「もったいない」精神は、各方面で大活躍することになる。この時代に、日本人は涙ぐましいほどの努力で、食料、衣料品、燃料を再利用した。
 同時代にイギリスでは、米国など新大陸への移民が始まっている。移民にとって新大陸は無限の広さを持つものに感じられたであったろうから、そこにある資源をいかに効率よく手に入れるかについては考えを巡らしたと思うが、資源を大切に使おうとする心が育つことはなかった。
 その頃、南米においてもスペイン、ポルトガル、イタリアからの移民が定住し始めるが、その移民が大陸に抱いた印象は北米と同様であったであろう。資源は無限にあるのだ。新大陸に「もったいない」精神が生まれることはなかった。
(一部省略)

 日本では、明治30年頃に人口過剰が意識されるようになり、大正になると人口過剰はさらに強く意識されるようになった。人口の過剰感は移民を出したい気持ちにつながるが、昭和に入ると米国で排日移民法が制定されるなどして、移民は難しくなった。そのために、日本は食糧増産によって人口過剰を切り抜けようとした。
 しかしながら、この時期の日本の政策は矛盾に満ちている。人口が多過ぎるなら産児制限をすればよいのだが、日本政府は逆に「生めよ、増やせよ」と人口増加計画を打ち出している。この背後には、食料が不足するなら他国の領土を侵略すればよいと考える軍国主義が見え隠れする。
(一部省略) 
 この時期に日本は植民地とした朝鮮や台湾からコメを調達しようとしたが、そこでも人口が増加してしまったために、十分なコメを手に入れることができなかった。人口問題の解決をはかるために、植民地への移民を考えたのは、満州国を作ってからのように思える。これは、朝鮮や台湾を植民地とした時代よりも満州国を作った時代のほうが、食料不足や人口過剰感が深刻であったためであろう。
(一部省略) 
 一方、満州国を作ったことにより日本は孤立してしまい、イギリス、フランスが支配する東南アジアからコメを輸入することが難しくなった。満州国設立の目的の一つに食料確保があったが、それが裏目に出てしまい、昭和10年代に入ると日本の食糧事情は悪化の一途をたどることになった。
 満州事変に始まり15年にも及んだ戦争の時代は「もったいない」精神が特に強調された時代になった。この時代の「もったいない」は、市民の自発的な行動だけでなく、政府の押し付けが加わったことに特徴がある。日中戦争から太平洋戦争へ戦線が拡大し、本格的に物資が不足し始めると、政府による国民への「もったいない」精神の押し付けは激しいものになった。
 当時のスローガンである「贅沢は敵だ」は、昭和14年に国民精神総動員委員会が言い出したものとされる。また、「欲しがりません、勝つまでは」は昭和18年に大政翼賛会が募集した標語の中から選ばれている。
(一部省略)
 もちろん物資が不足する中で、庶民は自発的に「もったいない」精神で物事に対処せざるを得なかったのだが、政府がそれを強力に後押ししたことで、当時を生きた人々に「もったいない」精神が強く植え付けられることになった。このことは、その時代を生きた人々の記憶に残り、現代社会にも大きな影響を及ぼしていると思う。


戦後生まれの大使にとっても、記憶は定かではないが、ひもじい思いをしているわけで、当然として「もったいない」精神を受け継いでおるわけです。

ところで、リーマンショック以降も、態度を改めない米国金融界、FRBなどには、サルコジ大統領も業を煮やしているようだが、大使とて同じである。(ゴマメの歯軋りみたいなものだが)そして、大使がアメリカの言動にいちいち癇に障るのは・・・・
もしかして「もったいない」精神の有る無しあたりに起因しているのではないかと思いあたるのです。


<「安全も水も、そして森林もタダで得られない」>
 サウジアラビヤの仕事からの帰りに、ドーハ発のカタール航空便で、西域~朝鮮半島あたりの上空を経て帰国した大使であるが・・・・
日本は濃い緑の山国であることを機上から実感した次第です。
 神戸の六甲山も、一時は韓国の山のように禿山だったらしいが、眼下に見える日本の森林にも人間の意志を感じざるを得ないのです。

ということで、川島博之著「食の歴史と日本人」から日本の森林被覆率のあたりを引用します。(これで、引用は4回目です)

p74~82
日本には森林が多い。その面積は2460万haにも上り、国土の67%を占めている。リゾート開発などによる森林破壊が問題にされることもあるが、世界と比べれば日本は森林が多く残されている国である。

 日本に多くの森林が残った理由として、まず日本の山が急峻であることがあろう。急峻な山岳地帯では木材の伐採が困難であり、また伐採した跡地の利用も難しい。
 急峻な山が多いために、森林の伐採が難しかったことは確かである。ただ、筆者はそのことだけが日本に森林が残った理由ではないと考えている。

 FAOデータから森林被覆率(国土に占める森林の割合)を計算すると、日本の割合は67%と際立って高い。ヨーロッパ諸国を見てもイギリスが10%程度、フランスが27%、森の国とされるドイツでも31%に過ぎない。
(一部省略)
 世界192ヶ国の中で、現在、日本より森林被覆率が高い国は17ヶ国しかない。それらの国々は、北欧のフィンランド、スウェーデン、東南アジアのカンボジア、マレーシアなどであるが、寒帯や熱帯では森林を伐採しても農地や草地に変えることが難しいために、森林が残されたと考えられる。一方、温帯や亜寒帯に位置する国の被覆率は概して低い。

 少々急峻な斜面の森林であっても、農地を作れないことはない。現に棚田や段々畑が存在している。しかし、日本で棚田や段々畑が山を覆うことはなかった。一方、照葉樹林帯を有することから日本との類似性がよく話題になる中国の雲南省の森林被覆率は41%と、日本に比べて大幅に低くなっている。雲南省の傾斜地の多くは農地や草地になっている。
 日本は平地での稲作が容易であり、無理に森林を伐採して農地を造成しなくとも十分な食料を生産することができたために、棚田や段々畑がそれほど発達しなかったのかもしれない。ただ、後に窒素収支との関連で検討するが、平地の稲作の効率を上げるために森林が残された可能性も排除できない。

 日本では稲作りに必要な肥料を、森林の下草から作っていた。先人たちは森林を切ってそこを農地にするよりも、そこから下草を得たほうが食料を多く生産できることに気づいていたようである。
 平地での食料の生産性を高めるために、森林を残すべきだと主張した人物に熊沢蕃山(1619-91年)がいる。熊沢は江戸時代初期に活躍した陽明学者、儒学者であるが、森林には肥料の元になる下草が生えるから、無闇に伐採開墾するのではなく残すべきだと主張している。また、彼は森林の洪水調節機能にも気がついていたようだ。昨今、話題となる「緑のダム」機能である。このようなことから、熊沢を自然保護論者の始祖と見る見方もある。
 熊沢が生きた17世紀は、これまで見てきたように大規模な開墾が行われた時代であったが、彼のような主張が現れ、その主張を今日にまで伝えるような精神的な土壌が日本にはあった。江戸時代の開墾は18世紀になると勢いをなくすが、このことは開墾に適する土地が少なくなってしまったという事情はあったにせよ、熊沢のような主張が人々に受け入れられた結果と考えられなくもない。江戸時代の農民は自然の利用法について、かなり高度な知識を有していたようだ。

 国土の多くが山岳地帯にあるスイスで放牧が盛んであることを見れば、日本でもその気になれば山の森林を伐採して、そこで放牧を行うことは可能だったと思う。ちなみにスイスの森林被覆率は30%である。
 このようなことを述べると、雨の多い日本では森林伐採は災害につながるとの反論がありそうであるが、1000年程度の時間をかけて、一部を残すなど慎重に森林を草地に変えて行けば、かなりの草地を造成できたと思われる。
 しかし、後に述べるように、日本人は天武天皇以来、頑なに肉食を拒否し、山で放牧を行ってこなかった。そのことが、結果的に、日本に森林を多く残すことにつながった。

 熊沢蕃山に見られるように17世紀に自然保護論が唱えられ、また、それが国土開発に影響を与えたと考えられることは、広く世界を見渡してもかなり特異な出来事である。このことは、明治維新に至るまで全国民がほとんど獣肉を食べなかったことと考え合わせて、「日本文明は世界のいかなる国とも文化的に密接なつながりを持たない(Huntington 1995)」とされることと無縁ではない。
 日本人は自然を大切にしてきた民族であるとして誇りに思うことも可能と思うが、その一方で、世界の中では相当に変わった民族であると自覚する必要もあろう。


森林保全のルーツにも、Huntingtonがいうように特異な日本人がいたのかもしれないが・・・
「安全も水も、そして森林もタダで得られない」という意識が肝要なんでしょうね。




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